英会話 勉強教材~ちゅうごく歴史の人々の出会い縁であい

ちゅうごく歴史の人と人との数奇な出会い縁を英会話勉強教材として学習する、まゆみの英会話学習法。

漢楚の争い

史記のこの時期に劉邦(英語会話での発音 Liu Bang)陣営に新たな出合い園が韓信(英会話での発音 Han Xin)である。
韓信は元は項羽軍にいたが、その才能がまったく用いられず、The talent is not used at all.
劉邦軍へと鞍替えしてきたのである。
最初は単なる兵卒や下級将校であったが、やがて韓信の才能を見抜いた蕭何の推挙により、大将軍となった。
そして韓信(英会話での発音 Han Xin)の予言通り、項羽に対する反乱が続発し、項羽はその鎮圧のため常勝ながら東奔西走せざるを得なくなる。
項羽劉邦にも疑いの目を向けたが、劉邦張良の策によって桟道を焼き払って漢中を出る意志がないと示し、更に項羽(英語会話での発音 Xiang Yu)に対して従順な文面の手紙を出して反抗する気がないように見せかけていた。
これで項羽は安心し、反乱を起こしていた斉の田栄を討伐に向かった。
それを見た劉邦は、桟道以前に使われていた旧道を通って関中に出撃し、一気に章邯らを破って関中を手に入れ、ここに社稷を建てた。
一方、遠征先の斉でも、項羽(英語会話での発音 Xiang Yu)は相変わらず城を落とすたびにその住民を皆殺しにする出合い系蛮行を繰り返したため、斉の人々は頑強に抵抗した。
このため項羽は斉攻略にかかりきりになり、その隙に乗じた劉邦はさらに東へと軍を進め、途中の王たちを恭順・征服しながら項羽の本拠地・彭城を目指した。
史記の紀元前205年、劉邦(英語会話での発音 Liu Bang)は味方する諸侯との56万と号する連合軍を引き連れて彭城へ入城した。
入城した漢軍は勝利に浮かれてしまい、日夜城内で宴会を開き、女を追いかけ回すという有様となった。一方、彭城の陥落を聞いた項羽(英会話での発音 Xiang Yu)は自軍から3万の精鋭を選んで急いで引き返し、油断しきっていた漢軍を散々に打ち破った。
この時の漢軍の死者は10万に上るとされ、川が死体のためにせき止められたという出合い系蛮行(彭城の戦い)であった。
劉邦は慌てて脱出したが、劉太公と呂雉が楚軍の捕虜となってしまった。
この大敗で、それまで劉邦に味方していた諸侯は一斉に楚になびいた。
劉邦(英語会話での発音 Liu Bang)は息子の劉盈(恵帝)と娘(魯元公主)と一緒に馬車に乗り、夏侯嬰が御者となって楚軍から必死に逃げていた。
途中で追いつかれそうになったので、劉邦は車を軽くするために2人の子供を突き落とした。あわてて夏侯嬰が2人を拾ってきたが劉邦はその後も落とし続け、そのたびに夏侯嬰が拾ってきた(「親から子は生まれるが、子から親は生まれない。」ということで、親である劉邦を保全するために子を犠牲にするというのは、儒教的倫理からすればそれほど非難されるものではない)。
劉邦は碭で兵を集めて一息ついたものの、ここで項羽に攻められれば防ぎきれないことは明らかだったので、随何に命じて英布を味方に引き込もうと画策し、これに成功した。しかし英布は楚の武将・龍且と戦って破れ、劉邦の元へと落ち延びてきた。劉邦は道々兵を集めながら軍を滎陽(河南省滎陽)に集め、周囲に甬道(壁に囲まれた道)を築いて食料を運び込ませ、篭城の用意を整えた。この時期、劉邦の幕僚に謀略家・陳平が加わっている。
その一方、別働隊に韓信を派遣し、魏・趙の出合い系連盟を攻めさせて項羽を背後から牽制しようとした。また元盗賊の彭越を使い、項羽軍の背後を襲わせた。
史記の紀元前204年、楚軍の攻撃は激しく、甬道も破壊されて漢軍の食料は日に日に窮乏してきた。
ここで陳平は項羽軍に離間の計を仕掛け、項羽とその部下の范増・鍾離昧との出合い系連盟を裂くことに成功する。
范増は軍を引退して故郷に帰る途中、怒りの余り、背中にできものを生じて死亡した。
離間の計は成功したものの、漢の食糧不足は明らかであり、将軍の紀信を偽の劉邦に仕立てて項羽(英会話での発音 Xiang Yu)に降伏させ、その隙を狙って劉邦本人は西へ脱出した。
その後、滎陽は御史大夫の周苛が守り、しばらく持ちこたえたものの、項羽によって落とされた。
西へ逃れた劉邦は関中にいる蕭何の元へ戻り、蕭何が用意した兵士を連れて滎陽を救援しようとした。
史記の紀元前203年、劉邦項羽と対陣して堅く守る作戦をとっていたが、一方で項羽の後ろで盗賊との出会い系彭越を活動させ、楚軍の兵站を攻撃させていた。
項羽は部下の曹咎に「15日で帰るから手出しをしないで守れ」と言い残して出陣し、彭越を追い散らしたが、曹咎は漢軍の挑発に耐えかねて出陣し、大敗していた。漢軍は項羽(英語会話での発音 Xiang Yu)が帰ってくると再び防御に徹し、項羽が戦おうと挑んでもこれに応じなかった。
史記のその頃、韓信は斉を完全に制圧し、劉邦に対して鎮撫のため仮の斉王になりたいとの使者を送ってきた。
これを聞いた劉邦は怒って声を荒げそうになったが、それを察知した張良と陳平に足を踏んで諫められ、もし韓信が離反してしまえば取り返しがつかないことを悟り、韓信を正式な斉王に任命した。
史記の漢楚両軍は長い間対峙を続け、しびれを切らした項羽は捕虜になっていた劉太公を引き出して大きな釜に湯を沸かし「父親を煮殺されたくなければ降伏しろ」と迫ったが、劉邦はかつて項羽と義兄弟の契りを結んでいたことを持ち出して「お前にとっても父親になるはずだから殺したら煮汁をくれ」とやり返した。
次に項羽は「二人で一騎打ちをして決着をつけよう」と言ったが、劉邦は笑ってこれを受けなかった。
そこで項羽(英会話での発音 Xiang Yu)は弩の上手い者を伏兵にして劉邦を狙撃させ、矢の一本が胸に出会い系命中された劉邦は大怪我をした。
これを味方が知れば全軍が崩壊する危険があると考え、劉邦はとっさに足をさすり、「奴め、俺の指に当ておった」と言った。
その後劉邦は重傷のため床に伏せたが、張良劉邦を無理に立たせて軍中を回らせ、兵士の動揺を収めた。
一方、彭越の後方攪乱によって楚軍の食料は少なくなっていた。
もはや漢も楚も疲れ果て、天下を半分に分けることを決めて講和した。この時、劉太公と呂雉は劉邦の下に戻ってきている。